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われ、かく戦えり
読売新聞記者だった私が、自由民主党候補として、選挙に出馬することが決まったのは、昨年7月のことだった。それから、わずか3か月後に迎えた選挙。多くの方のご支援で、64393票という得票をいただいた。民主党の新人候補には及ばなかったものの、これまであらゆる選挙で無敗だった現職候補を上回る得票をいただくことができた。ご支援をいただいた全ての方に、紙上をお借りして、あらためて感謝申し上げたい。
私の出馬が決まった7月は、総選挙が早ければ年内にもと予想されていた時期。普通に考えれば、遅すぎる決定であっただろうし、実際、多くの方々から「間に合わないよ」とのご指摘をいただいた。
しかし、私自身は、「いつの選挙に出るにしても、自分には、地盤も、看板も、金もないのだから、あまり変わらないじゃないか」と考えていた。それに、熱心にお誘いをいただいているときこそ、人として決断をしなければならないのじゃないかという考えもあった。
それよりも、自由民主党という政権を担っている政党が、徒手空拳で、まだ31歳の私を候補者として擁立してくれるという喜びの方が大きかった。本当によく、決めていただいたものだと今でも感謝している。
それで、新聞社の取材に対して、「私のように何もない若い人間に、チャンスをくれた自民党県連に感謝したいんです」と申し上げた。 そうすると、そのコメントがそのまま紙面に掲載され、「やるからには勝つつもりで、やらないとだめだ」と各方面から、お叱りをいただいた。私自身は、何としても勝つつもりでいたわけだが、こうしたコメントの出し方一つで、違った受け止め方をされるのだなあと、新聞記者出身ながら、おおいに反省することとなった。
ただ、何もない、若い候補ということで、一般の有権者には自民党候補者として、受け止めていただくのに、かなり時間を要することになる。選挙戦を迎えるまで、どこに立っていても、こうした問答が繰り返された。
「若いわねえ。民主党なの?」
「いえ、自民党です。」
「あら、お父さんが政治家?」
「いえ、町工場をやってます。」
「じゃあ、金持ちなんですか?」
「違います」
「じゃあ、何で自民党なの?」
「………」
最初のうちは戸惑った。そして、最後まで、こうした問いかけに答えるのに、多くの時間を要した。おそらく、民主党の若い候補者ならば、「民主党なの」で終わるのだろうが、自民党というだけでそうはいかなかったらしい。
小泉さんの進める改革、私の信条などを説明する。政策を聞いていただく前に、こうした説明が必要だった。ただ、この時間は無駄だったとは思っていない。「自民党からも君のような人が出れるんだねえ。」こういう答えをいただいた方には、選挙でも投票していただけたと、今でも、確信している。
話をもとに戻す。出馬が決まった私には、やらなければならないことが、ヤマのようにあった。事務所やスタッフの確保、あいさつ回り、ポスターやリーフレット、ホームページの製作。こうしたことを1人で走り回ってやっていたから、無謀といえば無謀だった。
しかし、友人、知人がホームページの製作を引き受けてくれたり、記者時代に取材をした方が、選挙の手伝いを約束してくれたりと、多くのうれしいことがあった。その一方で、慣れないものだから、のぼりが出来上がってみると、自民党の名前を入れ忘れているとか、政治団体の設立届けを出し忘れたとか。普通の候補者からすると、終わっていて当たり前のことで、走り回るはめとなった。
さて、出馬を決めた私が最初に考えたのは、「名前を売らないとなあ」ということ、政策の柱を何にするかということだった。事務所の手配より何より、「ソノウラ」というこの変わった名前を覚えてもらい、住んでいる人達に共感していただける政策が伴っていないことには、選挙にならない。そこで、ホームページと駅頭活動用ののぼりの製作に最優先で取り組むことに決めた。
のぼりが完成したのが8月12日。ホームページもそのころに完成した。ホームページは、学生に作ってもらったが、非常に良い出来で、森英介衆院議員からも、「良く出来ている」とお褒めをいただいた。
これは余談だが、森代議士のホームページもしばらくして一新された。私のホームページの出来栄えに触発されられたのではないかと自負している。
政策を練るにあたっては、やはり記者としての経験が大きく役にたった。市川通信部で市川市、浦安市を取材した経験。首相官邸、厚生労働省で、小泉総理の改革や雇用問題を担当した経験。これらをもとに、「自分の政策だから」ということで、1人で練り上げた。
その結果、リーフレットに掲載した政策は、6本の柱だった。本当は、私自身がライフワークにしたいと考えている外交、防衛の問題を大きな柱としたかったのだが、今の経済状況や犯罪の増加を考えるととてもそんなわけにはいかない。
また、「有権者は、自分がこれをやって欲しい、という政策が入っていた候補者のほうが、いいに決まっているのだから、いろいろ入れちゃったほうがいいんだよ」などという助言もいただいた。しかし、自分が、不勉強な分野、考えてもいないことを政策として掲げるのは、無責任に過ぎる。そこで、いろいろ考えた中から絞り込んで、6つの政策を掲げた。
その6つとは、外交に加え、市川、浦安地域のことを考えると、どうしてもはずすことが出来ない治安対策と、交通問題。そして、自らが塾の講師として、いろいろな生徒を指導してきた経験に基づく教育問題。さらには、国民の多くが不満を感じている経済再生と福祉・医療制度という柱だった。
のぼりが完成した翌13日から、駅前でのいわゆる「朝だち」を始めた。自分でのぼりを持って、駅前に立ち、政策を訴える。お金もかからないし、たくさんの人に聞いてもらえるし、いいなあと最初は思っていた。そこで、外交やら教育やら治安の話をし続けた。
そうした活動をしているうちに、多くの人から助言をいただくようになる。「朝はみんな、急いでいるんだよ。だから、のぼりを見てないかもしれないし、ましてや声は少しの間しか聞いていない。名前の連呼で十分だ」。
いただいた助言をトータルすると、このようになる。確かにその通りだ。よく考えたら、自分だって、そうだった。朝は立ち止まって、人の話している演説なんて、聞いたことがない。
「おはようございます」「そのうら健太郎です」。朝立ちを連呼形式に変えたのは、朝立ちを始めてから、1か月以上経過してからのことだった。
そうこうしているうちに、事務所も決まり、カラーの名刺も完成した。この事務所が特筆ものだ。おそらく、首都圏の候補者の中では、一番安価なのではないだろうか。
家賃は月45000円。机は、中古品を購入。電話や車はリース。応接セットはいただきもの。しかし、私にはこれで十分だった。ちなみに、事務所の電話番は、結婚したばかりの妻。その妻は、最初のころ、「全然、電話がかかってこない」と心配している。そんな状態の手作り選挙だった。
準備投階で感動したことがある。千葉県内の国会議員や選挙区支部長が、朝食を食べながら、打ち合わせをする「自民党千葉県所属国会議員・選挙区支部長会議」という、やたらと長い名前の会議だ。
なぜ、感動したかというと、記者時代に何度となく取材に出向き、部屋の外で終わるのを待って、出てくる議員さんたちから、どんな話をしたのか、取材していた会議だったからだ。記者仲間の間では、通称「朝飯会(あさめしかい)」と呼んでいた会議だ。
「どんな雰囲気でやってるんだろう」。「何を食べているんだろうか」。取材した会議の内容以外にも、興味をもっていた。まさか、自分がその会議の出席者になるだろうとは、その時は夢にも思っていなかったのだが……。
で、結論から言えば、朝食は白いご飯に、味噌汁、卵、豆腐といった、いたって普通の内容。会議は、新参者の私は皆さんにあいさつを申し上げ、様々な意見交換が行われた。
これが新聞記者時代には、「自民党県連は]日、都内で国会議員団などによる会議を開き、○○を決めた」と断定的に書いていたのだが、いろいろな意見が活発に飛び交って、記者時代に想像していた雰囲気とはかなり違った。そして、私自身、先輩議員の話は大いに参考になった。
候補者になつて一番苦労したのが、新聞社による候補者アンケートだ。回答作成にかなりの時間がかかる。全部自分で記入して回答したのだが、本当に時間がかかる。時には締め切り間際になって、徹夜して書き上げたこともあった。
本当は「もう1日待って」といえればいいのだろうが、記者時代に何度となく、回答を早く送ってくれるように督促していた身分だから、とてもそんなことは言えない。新聞記者は、早く回答を送ってもらわないと、紙面上、大変困るのだが、書くほうも予定がたくさんあって、大変なのだということを、身に持って知らされる結果となった。
初めての集会場、いわゆる「ハコモノ」で演説したのは、9月13日だった。場所は市川市の市民会館。自民党市川市支部に主催していただいた集会で、ゲストは、河野洋平元外務大臣、野田聖子元郵政大臣、森英介党県連会長などと、かなり豪華なメンバー。よくよく考えれば、私などは霞んでしまうのではないかと思った。
大勢を前にマイクを握った瞬間。よく、頭が真っ白になるというが、頭が白くなっていくのが、本当に分かった。
最初におじぎをするのを忘れてしまい、苦い顔をしている後援会の人の頭が見えたときには、「えー、頭の中が真っ白になってしまっております」と発言してしまい、失笑をかった。大多数の人が、「まあ、あれも良いよ」と言ってくれたのだが、自分自身は候補者として恥ずかしい一心で、落ち着いたころには、河野洋平先生のお話が、半分近く終わってしまっていた。
選挙が近くなってくると、「後は突き進むのみ」といった感じで、お手伝いをしてくれるメンバーも、一体になってくれたと思う。
無名の新人候補者で、とにかく考えたのは、「自分の声を、政策を、1人でも多くの人に聞いてもらいたい」ということだった。選挙戦に入って、宣伝カーが回るようになっても、私自身は演説用の旗とハンドマイクを持って、選挙区内を駆けずり回った。
そして、マンションというマンション、それに、人の集まっている場所があれば、ハンドマイクを片手に、車を飛び降りて、政策を訴え続けた。治安のこと、イラク問題を含む外交のこと、だんだん、話している内容が固まっていくのが、自分でも分かった。
多くの国会議員、県議、市議の応援を受け、また、支援者のみなさんからも、多くの声援をいただいた。特に最後の3日間は、どこに行っても、素晴らしい声援を得た。この3日間については、宣伝カーの担当者も、「雰囲気が変わってきた。いける」という手ごたえを感じてくれたようだ。
これらのみなさんの力が、わずか3か月で、あれだけの得票につながったかと思うと、感謝してもしきれるものではない。逆にいえば、自分の力不足が歯がゆくて仕方ない。
あいさつに行かず、失礼をした方が数多くいた。私の声を聞いていない方が、選挙区にまだまだ数多くいらっしゃると思う。政策的にも、まだまだだと思う。
そうした自分に足りなかった部分を埋め、次回はみなさんの期待に応えることができる男になっていることをお約束したい。
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